飲みにケーションが復活?


Yahooニュースで読んだ方もいるかしれませんが
今、ひそかに「飲みにケーション」が復活してきているそうです。

そして、その中で一つの議論がありました。
それは、上司が部下を飲み会を誘ったことが発端です。

次の日、部下は上司に確認したそうです。
「昨日の飲み会は残業代でるんですよね?」

と。そして部下は続けて言いました。

「部全員が参加すると言われたら、参加するしかない。
なぜ、楽しくもない飲み会に参加させられ、会費まで
払わなければならないんですか?」

よって、残業代は出て当たり前だと。

話はこの後、今後は断ってもよいということで収まったらしいです。

で、ここからが本題。
そもそも「上司と部下との感覚はなぜずれているのでしょうか?」

私が考えるに、昔は終身雇用が当たり前の時代であり、
上司はそういった時代を生きてきました。

よって、当たり前のように会社に依存し、
また上司に依存してきたわけです。

一方、部下は今や終身雇用の時代は終わり、自分の身は
自分で守るという考えが当たり前の時代を生きています。

この時代の変化が認識祖語の要因の一つだと思いました。
(まあ、他にもいろいろとあるとは思いますが・・・)

で、思うわけです。
物事は考えようだと。

つまり、「受け身で捉えるか主体的に捉えるか」です。

どうせ、参加しなければいけないのであれば
「参加することによって、何を得ようか?」
と考えればいいのでは?と。

最近読んだ本にこう書いてありました。

「与えられた環境でどう振る舞うかでしか人間は前に
進むことができない。」

「人は物事を見たいように見ている」と。

と偉そうなことを私も言っておりますがかつては
私もこの部下のようなことを思ったことがあります。

そして、私はこう考えるようにしました。
「参加して有益である(目的がある)のであれば参加しよう。
ただの愚痴の言い合いになる不毛な時間になるようであれば断ろう」と。

何をするにも自分の中で「基準」を持つことが大事です。
そうすることで何事にも主体的に取り組めます。

自分に基準がないと、周りに影響、依存してしまい、
結果として不毛な時を過ごすことになります。

私たちは日々、命が削られていくわけですから、
1秒たりとも不毛な時間は過ごしたくないですよね?

そのためにはまずは
「自分の中に基準を設けて、その基準に従って判断する習慣を身につける」
とよいかと思います。

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